〇年級(○年生)
新聞などを読んでいると、たまに「〇年級」という表現に出くわすことがあります。
一般的な中国語では「〇年級」は「〇年生」という日本語訳ですが、下の引用記事に「七年級生珍貴回憶!」(7年生の輝かしい思い出)とあるように素直に7年生と訳してしまうと、不思議な翻訳になってしまいます。
これは実は中華民国暦を10年ごとに区切った表現なのです。
例えば民国80年代生まれでは8年級、民国90年代生まれでは9年級という具合です。
これは恐らく台湾のみでしか通用しない表現ですが、結構話のネタになります。
宝石店の「分」
宝石店の前にあった看板
30分19,800元からって、サプライズ演出プランと思っていたところ、「○○分」とは日本語で言うところの「○○カラット」らしい
身在曹營心在漢
今回もInstagramで知った故事成語より
冒頭の「人在漢心在楚」
後に頻出する「楚」にかけて、「身在曹營心在漢-身は曹営に在れど、心は漢に在り」という故事成語をもじったものですが、実はかなり熱い成語です。
出典は『三国志演義』です。
敵将曹操に投降した関羽。
関羽の武芸と人物を高く評価していた曹操は贈り物を贈るなど、買収にかかりますが、義兄弟の劉備を常に思いやる関羽の姿に、曹操も次第に関羽の心は常に劉備のところにあり、自分のところにはないこと、そして遠からず自分のところから劉備の許へと去っていくことを悟ったと言います。
そのような関羽の心を描写した表現で、「心ここにあらず」という翻訳も見受けられますが、出典を押さえると、意味は忠義を反映させて場所はどこであれ、心は常に主人・味方の許にあるというところでしょうか。
朝秦暮楚
意外に見落とされがちな語学学習の肝;
文化や歴史的な背景を知ることもとっても大切
知り合いのInstagramを見ていた時にそれを痛感しました。
そこにあったのは「朝秦暮楚」という四字熟語
秦と楚が取り上げられているので、恐らく戦国時代のことだろうなと思いつつ、その意味は分からず.....
教育部のオンライン辞書「國語辭典簡編本」で検索すると、次のような解説がありました。
秦和楚為戰國時代的兩大國,夾處其間的韓、趙、魏等國,時而事秦,時而事楚,反覆變化。比喻人心反覆無常。
(戦国時代の二大大国であった秦と楚、その間に挟まれた韓や趙、魏などの国は時には秦に、時には楚に仕え、常に変化していた。人の心が絶えず揺れ動いていることを例えている)
http://dict.concised.moe.edu.tw/cgi-bin/jbdic/gsweb.cgi?o=djbdic&searchid=Z00000029643
すなわち戦国の世の大国に挟まれた小国の現実主義的、日和見主義的なところを、定まらない人の心にかけて例えたものでした。
古代中国史を知らなければ、分からない四字熟語でした。
ちなみに冒頭の「人在漢心在楚」は「身在曹營心在漢」をもじったものですが、こちらの解説はまた後ほどに
月見に焼肉
中秋の名月といえば、日本では月見団子ですが、台湾では月餅とBBQが代表的な季節の食べ物となっています。
中秋節の前後には軒先や道端でワイワイとBBQをする光景が広がり、ニュース番組ではBBQの注意点などに関するニュースが流れます。
月見とBBQ、少し似つかわしくない組み合わせですが、その由来については、萬家香醬油や金蘭醬油という調味料メーカーが中秋節に合わせてCMを流し、後にスーパーが中秋節にBBQ関係の商品を販売したという説が主流でした。
しかしこの説は最近歴史的事実と異なるという意見のもと、新説が出てきました。
各地の月見を取り上げた、1978年の新聞記事に中秋節にキャンプでBBQをしたとの記述があり、これが中秋節とBBQを結びつける初めての記述として見られています。
1982年の新聞には中秋節のBBQは新竹で流行しているという記事が出てきます。それまで新竹で生産されていた輸出用のコンロが売れなくなり、それを内需向けに転換したことが一つの契機になりました。それまで風景区(景勝地)で行われたBBQが様々なところで行われるようになったという報道があり、これを中秋節のBBQ習慣の起源と見る向きもあります。
その後、この流れが大衆化したのは1989年ごろと見られます。
1989年の經濟日報では、国内向けには100元、200元以下のBBQ用の焼網を製造し、中秋節には12万セットが売れる見込みというBBQ用品の製造メーカーの見解を掲載しています。手ごろな価格のBBQ用品が普及したことが大衆化に火をつけ、1992年より中秋節のBBQに関する記事が激増します。
さて冒頭の調味料メーカーによるCMが中秋節のBBQ習慣を形作ったという説。時系列を整理すると、1986年に萬家香醬油が醤油とBBQを結びつけるCMを放映し始め、翌年には金蘭醬油も同様のCMを流し始めます。いずれも中秋節とは関係ないCMなのですが、時を置かずして、中秋節のBBQ習慣が大衆化し始めたので、調味料メーカーのCMが中秋節のBBQ習慣の起源と見られるようになったという指摘があります。
起源はどうあれ、BBQが中秋節の楽しみの一つになっているのは確かです。
月見BBQ、なかなか乙かもしれません。
【参考URL】
起初烤肉應該是作為賞月的餘興,且限於露營地區或風景區,1978年《民生報》曾整理各地的賞月活動供民眾參考,其羅列二十項活動,直接提到烤肉的有三項,分別是:一、中華民國露營協會...okplaymayday.pixnet.net
リンゴのない、リンゴパン
スーパーで会計した時にレジの隣で割引されて売られていた「蘋果麵包」(りんごパン)。
気になったので、買ってみたところ、素朴でやや甘めなパンで、りんごっぽさは全くありませんでした。
原材料表示を確認しても、りんごの文字はありませんでした。
1959年に劉哲基という陸軍少校が退役した時にカナダ人博士の提案で製パン業を起こし、駐留米軍にパンを納めていました。しかし1978年にアメリカとの国交が断絶したことで、米軍が撤退し、経営も苦境に陥り、内需向けに販売を拡大する必要が出てきました。
その際に高級品のシンボルだったりんごにあやかり、「蘋果麵包」と命名したそうです。
またちょうど「蘋果西打」(アップルサイダー)のCMが好評を博していたこともあり、それに便乗した面もあるようです。
ちなみにこの蘋果麵包は食料品店の他、小中学校の福利社(校内売店)でも売られているので、台湾人にとって共通の子供のころの懐かしい食べ物となっています。
日本人にとって、たまごボーロみたいなものでしょうか。
台湾人の思い出の味を一口、どうでしょうか。
110年の流浪の先
今年も七腳川部落の豊年祭に参加してきました。
その際に七腳川部落の南方にある壽豐で七腳川事件110周年を回顧する展示があるとのことで、現在までに続く七腳川事件の影響を学ぶために足を運んできました。
アイデンティティの喪失と模索
そんな言葉しか見つからないほど、七腳川事件の影響は現在でも強く尾を引いています。
【年齢階級】
アミ族では、一般的にselalという年齢層別グループが形成され、生活に必要な知恵や伝統文化を伝承する場、部落運営・防衛の基礎単位として機能しています。七腳川社では7つのselal(元来は8つ、後に7つ)が形成され、8年ごとに最年長のselalが引退し、そのグループ名を最若手に受け継がれるという仕組みでした。
強制移住後でもこの年齢階級は構築されましたが、中間層のselalを欠いているなどを理由として、移住先によって失われたところもあります。
【伝統文化の継承】
台北などの大都市に職を求める若者が増え、伝統行事の運営などに影響が及んでいるという問題は様々な原住民部落に共通してみられる問題ですが、七腳川社にルーツを持つ部落はさらに深刻です。
移住者が多かった光榮部落は伝統文化が比較的保存されているとのことで、他の七腳川社系部落が伝統の発掘・継承のために積極的に訪ねているとのことです。しかし豊年祭のMalalikiという舞踊の際に手をどうつなぐかということ(malalikid)は部族としての結束の強さを示すものですが、そのつなぎ方や踊りの際の歌の意味もあやふやになっているとの指摘があります。伝統文化の形式的な継承だけではなく、それぞれの側面が意味するところをどう継承するかが今後の課題となっていきそうです。
【血縁的なつながり】
七腳川社の住民は事件により離散しました。その中であるいはその後の生活の中で血縁的なつながりも分断あるいは風化していき、誰がどこの親戚かが分かりづらくなってきました。
そのため結婚の際には近親婚のタブーを避けるため、出身やルーツなどを細かく確認することが行われると聞きました。タブーを侵さないかのためにルーツを確認する必要があるほど、血縁的なつながりが比較的希薄になってしまったようです。
七腳川事件により、血縁としてのルーツ、部族内で共有していた文化や言語、そしてアイデンティティの風化がネガティブな側面が現在まで影響しています。
今回豊年祭に参加した七腳川部落では、2004年に「七腳川」という部落名とAlemetという年齢階級を復活させました。以来七腳川社の伝統文化の発掘や七腳川社の系譜にある部落とのつながりを積極的に行い、2012年より現在のような豊年祭の様式が整ったとのことです。しかし伝統の発掘と継承はいまだにその途上にあると言えます。
伝統の忘却、風化の恐ろしさ、伝統再生の困難さ、そして伝統継承の重要さを、七腳川系部落の取り組みが静かに語っています。
七腳川事件
花蓮近郊の代表的な観光地、慶修院。
徳島県・吉野川沿岸からの移民を中心に形成された移民村・吉野村の信仰の中心として、大正6年(1917)に「真言宗吉野布教所」として開かれました。
吉野村は台湾東部の代表的な移民村ですが、その前史には日本の官憲とアミ族の衝突がした、いわゆる「七腳川事件」がありました。
現在の吉安郷にはかつて「七腳川社」という原住民部落があり、数千人のアミ族を抱え、花蓮市周辺では最大かつ最強の部落でした。
明治40年(1907)に山間の原住民の襲撃を避けるために花蓮近郊に隘勇線(高電圧鉄条網)が設置され、その警備要員として七腳川社などのアミ族があてられました。
しかし報酬が少なく、また勤務態度不良を理由として部落から離れた海岸部への異動を命じられたことから、明治41年(1908)12月に18名のアミ族が労働拒否をし、山間部へ逃げ込んだことから七腳川社のアミ族と日本側の衝突が始まりました。
山間部に逃げ込んだ七腳川社のアミ族は隘勇線の囲い込みの対象となっていた太魯閣族と結んで、日本側へ抵抗活動を展開しました。
一方で日本側も駐在所などが襲撃されたことで、本格的な軍事行動を発動させました。同時に周辺のアミ族の部落に七腳川社にある食糧を略奪させるという兵糧作戦を展開しました。抵抗を続けていたアミ族は山間部に追い込まれ、食糧を欠いたことなどから、翌年3月までに1,322人が帰順。その後も散発的な抵抗活動は大正3年(1914)まで続きました。
この事件で、日本側は27名が死亡し、七腳川社側も200人以上が亡くなったと伝えられています。また帰順した七腳川社の住民もその居住地は没収され、台東の鹿野郷をはじめとして、壽豐郷や光復郷などへの移住を迫られました。
日本側に没収された土地へ移植してきたのが冒頭の吉野川沿岸から移住してきた移民でした。この事件について、七腳川社のアミ族の報酬に関する不満が事件の引き金になったとの見方もありますが、一方で土壌が肥沃な七腳川社に関する土地問題がこの事件の背景とする見解もあります。
事件後に一部の住民がかつての七腳川社に戻ることが許され、今の七腳川部落となりました。しかしこの事件の余波は現在まで及ぼしています。
その影響についてはまた後程。
【参考】
消しゴムの乱
今年1月の大學學科能力測驗(センター試験に近い試験)のが行われる朝に蔡英文総統が投稿したインスタグラムが物議をかもしました。
消しゴムを指す「擦子」という単語について、呼び名が違うと議論になり、果ては総統自らオンライン上で投票活動を行うまでになりました。
参考までに各自治体の消しゴムの呼び名については次の通りになるようです。
基隆:擦子
台北:擦布、橡皮擦
新北:橡皮擦、擦布、橡擦
桃園:橡擦、七辣、橡皮擦、擦子
新竹:橡皮擦、橡擦
苗栗:粉擦、橡皮擦
台中:擦子、擦仔、橡皮擦、嚕啊
南投:橡皮擦、嚕啊
彰化:七辣、橡皮擦、查啦
嘉義:七辣、擦子、呼啊
雲林:擦布、七辣
台南:呼啊、擦子、橡皮擦
高雄:呼啊、七辣、橡皮擦、嚕啊
屏東:嚕啊、呼啊、橡皮擦、擦子
宜蘭:擦子、七辣、呼啊
花蓮:橡皮擦、擦子
台東:擦子
澎湖:橡皮擦
中南部で目立つ「呼啊」、「七辣」、「嚕啊」などは明らかに台湾語由来の呼び名ですが、恐らくは日常生活における台湾語の使用比率を反映していると思います。
さて蔡総統主催の呼び名投票ですが、「擦子」が圧倒的多数を占める結果となっています。
寿司米から
台湾のスーパーをのぞくと、「壽司米」なるお米が売られています。
調べてみると、寿司を作るのに適したお米のことを指しているようなのですが、台梗9號という品種のお米も指しているようです。
この台梗9號は台湾が経済成長を遂げ、米消費量が減少に転じた際に、高品質米の作出を目的に許志聖博士により台農秈育2414號とコシヒカリをガンマ線に充てて突然変異させた北陸100号を交配させてできた品種です。
弾力や粘り気があり、食味や品質もいいため、高級寿司に適していることもあり、寿司米と呼ばれるようになったようです。冷めても食味を保つことから、寿司に限らず、チャーハンや弁当にも適しているとされています。
高品質の米が生産されるブランド米作地である台東県の池上で2004年に行われた品評会では最優秀に輝いたことなどから、台湾で最も美味な優良米として認識されています。
しかしここからが台湾社会特有の現象ですが、コンビニのおにぎりの宣伝で「台梗9號使用」を謳ったことから、それを商機ととらえてか、台梗9號米が広く売られるようになりました。
しかしサンプル検査をしてみると、他品種がかなりの比率で混入しているなど、台梗9號米とは名ばかりの商品が市場に並び、問題となりました。販売業者は精米や包装の過程で、混入や誤認などがあり、結果として台梗9號米の比率が低い米が販売されたとしています。
しかし当時の資料によると、作付面積比較で、2012年第2期では3.39%で第6位、翌2013年第1期では2.96%で第7位と全体的には台梗9號の生産量は多くありません。
しかしコンビニの宣伝を契機に台梗9號の流通量が増えたのは、販売業者が単価を高くしたり、売れ行きをよくしたりすることを狙って、表示偽装したと疑われています。
金のなる木には積極的に取りに行く。
そんな台湾人の性格がこの寿司米こと、台梗9號の流通状況から見えてきます。