七腳川事件
花蓮近郊の代表的な観光地、慶修院。
徳島県・吉野川沿岸からの移民を中心に形成された移民村・吉野村の信仰の中心として、大正6年(1917)に「真言宗吉野布教所」として開かれました。
吉野村は台湾東部の代表的な移民村ですが、その前史には日本の官憲とアミ族の衝突がした、いわゆる「七腳川事件」がありました。
現在の吉安郷にはかつて「七腳川社」という原住民部落があり、数千人のアミ族を抱え、花蓮市周辺では最大かつ最強の部落でした。
明治40年(1907)に山間の原住民の襲撃を避けるために花蓮近郊に隘勇線(高電圧鉄条網)が設置され、その警備要員として七腳川社などのアミ族があてられました。
しかし報酬が少なく、また勤務態度不良を理由として部落から離れた海岸部への異動を命じられたことから、明治41年(1908)12月に18名のアミ族が労働拒否をし、山間部へ逃げ込んだことから七腳川社のアミ族と日本側の衝突が始まりました。
山間部に逃げ込んだ七腳川社のアミ族は隘勇線の囲い込みの対象となっていた太魯閣族と結んで、日本側へ抵抗活動を展開しました。
一方で日本側も駐在所などが襲撃されたことで、本格的な軍事行動を発動させました。同時に周辺のアミ族の部落に七腳川社にある食糧を略奪させるという兵糧作戦を展開しました。抵抗を続けていたアミ族は山間部に追い込まれ、食糧を欠いたことなどから、翌年3月までに1,322人が帰順。その後も散発的な抵抗活動は大正3年(1914)まで続きました。
この事件で、日本側は27名が死亡し、七腳川社側も200人以上が亡くなったと伝えられています。また帰順した七腳川社の住民もその居住地は没収され、台東の鹿野郷をはじめとして、壽豐郷や光復郷などへの移住を迫られました。
日本側に没収された土地へ移植してきたのが冒頭の吉野川沿岸から移住してきた移民でした。この事件について、七腳川社のアミ族の報酬に関する不満が事件の引き金になったとの見方もありますが、一方で土壌が肥沃な七腳川社に関する土地問題がこの事件の背景とする見解もあります。
事件後に一部の住民がかつての七腳川社に戻ることが許され、今の七腳川部落となりました。しかしこの事件の余波は現在まで及ぼしています。
その影響についてはまた後程。
【参考】