「跨ぐ」か、「過ごす」か

何年も台湾に住んでいるのに、今さらで恥ずかしい限りですが、新年を迎えるという表現について、「跨年」と「過年」の2つがあると気づきました。

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実は使い方もうまく分かれていて、「跨年」は新年を迎える際に、「過年」は旧正月を迎える際に使われるようです。

 

またそこから醸し出される印象も違い、「跨年」は友人と過ごすクリスマスのような楽しい印象、過年は家族が集まる温かい印象という感じを受けます。

 

それぞれイベント的な印象と民俗風習的な印象を感じますが、昨年も触れた通り、新年の迎え方について時間感覚・暦感覚が日本人とは異なるようです。

 

「跨」という字は何かを足で(その何かに接触せずに)越えるという英語のbeyondに近い印象が、「過」という字は何かを通り過ぎる(突き抜けていく)という英語のthroughに近い印象がそれぞれあります。

 

ここでは「接触」がポイントになるかと思いますが、そこから「跨年」は「過年」とはどこか冷めた感じがします。

確かに台湾での生活における肌感覚として、「跨年」は日常生活の延長上にあり、「過年」は年が改まるという緊張感や期待があります。

 

このように新年を迎える気分が台湾と日本で違うのは、明らかに旧暦(農暦)の扱いによるものです。

日本では、明治維新以降、政府は新暦(グレゴリオ暦)の徹底を図ってきました。また日本の産業構造の中心が農業以外に移ったことで、農作業とも密接な関係にある旧暦が必要とされなくなったと思われます。

他方で中華圏は日本よりも農業から工業への基幹産業の移行が遅かったことが世間のニーズとして旧暦が必要とされたと思います。

また暦の制定は長らく政権君主の専権事項という思想が残存しているため、西洋文明の定めるグレゴリオ暦は受け入れられなかったということも考えられますが、社会の近代化が日本よりも緩やかだったことが旧暦に基づいた生活がまだ残っているのかもしれません。